ホームに戻る   表紙に戻る  前のページに戻る  次のページに進む


が納められ、式が終わりました。
供納の一行は京都で一泊し、翌十七日に帰って来ました。

【その後の斎田】

斎田で栽培され、収穫された供納米以外のお米は、宮内省に送られたり、標本にされたり、各都道府県庁や外国に送ったり、祝賀会用菓子の原料になったりして処分されました。
年末には斎田地の竹矢来が撤去され、桧の標柱は早川定之助に記念として払い下げられました。
また、斎田地の四隅に植えられて
いた榊(さかき)一本は八幡杜境内に、一本は早川定之助の庭に、後の二本は県立農事試験場に移植し、神聖な記念木としました。

十二月には斎田関係の会計処理や事務処理が終わり、十一日に開かれた役員会で、悠紀斎田奉賛会の解散が議決され、解散式が行われました。

年が変わり一九一六年(大正五年)一月六日、愛知県庁において早川定之助に対し、天皇・皇后両陛下からの★『紋付き銀杯一組』と、★『御下陽金一千五百円』の伝達式が行われました。
また、三月三十一日には今の六ツ美南部小学校において、斎田経営等に協力
した関係者二千五十八人に対する『金一封』(賞金や礼金の金額を書かないでいで紙に包み、封をしたもの)の御下腸金の伝達式が、愛知県知事が出席して行われました。

★紋付き銀杯(もんつぎんぱい天皇家のしるしである菊の花の模様の付いた銀の杯)
★御下賜金
(ごかしきん=天皇・国からいただくお金)

一月二十二日、愛知県議会において、斎場跡二十アール(二反歩)と斎田地四十アールの一土地を県が買い上げ、水稲の原々種田とすることが議決され、合わせて悠紀斎田点定を記念して『記念碑』を建てることも決められ、三月に抜穂式斎場の正門があった位置に建てられました。

-14-
ホームに戻る   表紙に戻る  前のページに戻る  次のページに進む