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一方、六ツ美村青年(せいねん=十五、六才ごろから二十才前後までの若い男)会員、在郷軍人(ざいごうぐんじん=ふだんは家や地域で仕事をしていて、戦争になると戦場に行く陸海空の軍人)会員は、斎田の横に見張り小屋を建て昼夜交替で監視したり、講演会を開催するなどして、斎田奉仕の啓蒙(けいもう=知識や考え方を教え導くこと)を図っていきました。 早川定之助は、家族と飲食を別にし、沐浴(もくよく=水や湯で体をきれいにする)してから斎田事務をされるという毎日を送られました。 りょうあん 【諒闇中の斎田】諒闇天皇、太皇太后、皇太后がなくなったときの国民が喪に服すること 斎田に関する準備が進行中の一九一五年(大正四年)四月十一日、昭憲(しょうけん)皇太后がご崩御されました。 その緒果、関係者は今までに準備してきた竹矢来(たけやらい=竹で仕組んだ囲い)・標柱・しめ縄・忌竹・通路・水路等の修理、保全をしながらひたすら喪の明けるのを一日千秋(いちにちせんしゅう一日一日が非常にに長く感じられること)の思いで待ちました。 【新穀供納命令】 五月一日、〔大嘗祭の斎田より供納する新米は白米一石で、十月十八日までに、京都宮内省出張所へ納めよ〕との通知が来ました。 県知事は、五月三日早川定之助ほか関係者を県庁に集め、このことを伝えました。 |
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