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斎田地四十アール(四反歩)四区画のうち、早川定之助が二区画、早川龍介と杉浦喜助が一区画ずつ所有する田であったのを、早川・杉浦両氏が早川定之助のほかの田と交換し、四十アールは一団(いちだん=ひとつのかたまり)として点定の光栄を受けました。 斎田地は幅一・八メートル(一間)の十字路のあぜ道を作って四つに区分し、周囲には幅丁八メートルの不浄除けの道を巡らし、その内側に竹矢来を設け通路としました。南側に桧材の黒木造りの正門を設け、東西側面にも同型の通用門が設けられました。 竹矢来は高さニメートル、長さ二百三十メートルにわたって張り巡らされ、その外側には四メートルおきに葉付きの忌竹を立て、しめ縄が張られました。 斎田地中央の十字路交点に、『大嘗祭悠紀斎田』と書かれた制札型の標識が立てられました。四隅にも『大嘗祭悠紀斎田』と書かれた高さ三メートルほどの標柱が立てられました。 斎田の整備が進むにつれ、八幡杜境内には農具小屋・潔斎所(けっさいじょ=身を清める場所)・井戸・休憩所・精米所などの建物の建設がされました。斎田地前には警備小屋や用水見張小屋も建てられました。このほかに斎田地近くに気象観測所を建て各種の観測機器を備え、毎日二回、気温・地表温度・降水量・風向などを観測し、県立測候所に連絡して天候の異変に備えました。 斎田地は勅定によって決められ、大嘗祭用の新穀を生産する神聖な場所ということで、厳しい規則や禁止事項がありました。警備について、区域は斎田を中心に東西三〇〇メートル、南北三〇〇メートルとし、見張り人は、午前七時から午後七時までを六ツ美青年会員三六七名、午後七時から翌日午前七時まで |
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